海に眠る財宝!~海賊編~

アニメや映画、小説などで一躍有名になった海賊たち。
今回は海賊たちの残した財宝についてお話したいと思います。

1、キャプテン・キッド

海賊の財宝について語る上で外せない人物がウイリアム・キッド、通称キャプテン・キッドです。
キッドは、現在の価値で約22億円の莫大な財宝を蓄えていたと言われています。

貿易商から海賊へ

キッドは元々ニューヨークを拠点とする貿易商でしたが、密貿易の摘発を請け負ううちに自らが海賊になりました。
キッドはイギリスから敵であるフランス船の略奪許可を得て私掠船として活動していましたが、次第にフランス船以外のあらゆる船に手を出し、海賊のような行動を繰り返しました。

海賊として海へ

1697年10月、キッドはウイリアム・ムーアという船員と口論になり殺害してしまいます。
この事件をきっかけに海賊として海に出ることを決意します。

1698年1月、キッドは偽のフランス国旗を装い、商船クェダ・マーチャント号を襲い略奪、配下の海賊船として使用しました。
しかし、この船が実はイギリスの船であることが発覚し、乗員に船を返すと持ち掛けたが拒絶され、それ以降キッドは2隻の船団を率いることになります。

1698年4月1日、キッドとその船団はマダガスカル島で海賊と遭遇します。
相手はキッドの下で副船長として働いていたロバート・カリフォードでした。
キッドは船員に襲撃の命令を出しますが、クェダ・マーチャント号の船員は皆謀反を起こし裏切ります。
わずか10数名の船員しか残らず、キッドは逃げるように帰国を決意します。
その際に、今まで乗っていた「アドベンチャー・ギャリー号」を燃やして破棄し、クェダ・マーチャント号で出発しました。

ニューヨークに帰り着いたキッドはその場ですぐに拘束されました。
ロンドンへ護送されたキッドは、数々の海賊行為とムーア殺害の罪で起訴され、イギリス歴史上最も悪名高い刑務所であるニューゲート監獄に投獄されます。
そして1701年5月、ロンドンで絞首刑となり、遺体は鉄の檻に入れられテムズ川に数年間も晒されました。
海賊を志す者への見せしめとして・・・

2、キャプテン・キッドにまつわる逸話

キッドは最後に「自分はある場所に財宝を隠してある」と叫び、処刑されました。
この話を基に「今でもどこかにキッドの財宝が眠っている」という伝説が発生し、現在でも大きな影響を残しています。

キッドに影響されたもの

キッドが処刑されて3世紀もの間、世界中の大勢の人間がキャプテン・キッドの財宝を血眼になって探してきました。
また、カリブ海の島々では海賊の財宝伝説が今なお語り継がれています。
キッドが残した言葉は多くの作家にも影響を与え、数々の作品が世に生まれました。
キッドの話を基に、ロバート・ルイス・スチーブンソンは「宝島」を、エドガー・アラン・ポーは「黄金虫」を書いたとされています。
さらに映画でもキッドを題材にした「海賊キッド」が作成され、海賊をテーマにした映画や漫画も数多く制作されました。
「パイレーツ・オブ・カリビアン」はまさにカリブ海の海賊をテーマにして描かれ大ヒットしました。

キッドの財宝

2007年、ドミニカ共和国沖の浅海でキャプテン・キッドの海賊船「クェダ・マーチャント号」と思われる船の残骸が300年ぶりに見つかりニュースになりました。
大砲と思われる残骸も発見されており、記録に残る特徴とほぼ一致しているとのこと。
クェダ・マーチャント号も金銀などの財宝を積んでいたと言われている為、多くのトレジャーハンターに刺激を与えました。

また、2015年にはインド洋沖で重さ50キロ、約320万円相当の銀の延べ棒が発見されました。
これは、キャプテン・キッドの旗艦「アドベンチャー・ギャリー号」と思われる沈没船から引き上げられたそうです。
当時は銀本位制の真っただ中であったこともあり、発見者はこれが300年前のキャプテン・キッドの財宝であると確信していました。
しかし、ユネスコの報告書では、「アドベンチャー・ギャリー号の残骸ではなく、港の建築物の破損した残骸の一部。見つかった金属の塊も銀は含まれておらず、95%が鉛だった。」
と発表されました。

ですが、キッドの活動拠点に近かったニューヨークのガーディナーズ島や、カナダのオーク島では隠されていた財宝が実際に見つかっています。
まだ未発見の財宝があると信じて、今でも宝探しに励むトレジャーハンターは後を絶たないようです。

3、宝島にまつわる伝説

皆さまは日本に「宝島」という名前の島があることをご存知でしょうか?
正式名称は「鹿児島県鹿児島郡十島村宝島」と言います。
屋久島と奄美大島の間に7つの有人島からなるトカラ列島があり、その最も南に位置する島が「宝島」で、人口わずか120人ほどの小さな島です。
実はこの島にもキッドが財宝の一部を隠したのではないかという伝説があります。

島に伝わる伝説

宝島には「元禄11年頃に外国の海賊がやってきて、洞窟に逃げ込んだ島民を焼き殺し、その洞窟に住み着いていたが、ある日、財宝を残したまま島を後にした」という言い伝えがあります。
元禄11年は西暦でいうと1698年になります。
1698年というとキッドがマダガスカル島を後にし、ニューヨークで捕まるまでの期間と一致します。
では、本当にキッドは日本に来たのでしょうか?
キッドは1699年にニューヨークで捕まるまで、東シナ海を中心に略奪行為を行っていたという話はありますが、はっきりとそのことを示す史料はありません。
逆に、それらを否定するものも何もないですが・・・

伝説を裏付けるもの

1936年(昭和11年)に発行されたアメリカの雑誌「MODERN MECHANIX」にキャプテン・キッドが描いたとされる「宝島」の地図の複写が掲載されました。
そして翌年には、アメリカ、コネティカット州サウシントンから「日本・東京・日本領事館」と宛名書きされた手紙が外部省宛に届きました。
内容は「キッドが1700年頃に描き残した地図は日本の南西諸島のどこかと思われる。見つけたら相応の謝礼をいただく」というものでした。
当時は戦前の不安定な社会情勢もあり、まともにとりあう者も少なく時代の影に埋もれていきます。

しかし、1973年(昭和48年)に日本の埋蔵金(上・下)が発売され、キッドの財宝伝説は多くの人に知られるようになりました。
また、近年には当時発行された雑誌の現物を手に入れ、実際の宝島の地形的特徴が酷似していたことから、本格的な調査が行われるようになり、24時間テレビでもその内容が放送されました。
地図に基づき綿密な調査を行いましたが、残念ながら思うような成果はあげられませんでした。

永遠のロマンとして

キッドが実際に海賊行為を働いていた年月は決して長いものではありません。
一流の海賊と言える活躍もしていません。
では、そんな彼がなぜ後世に名を残す伝説の海賊となったのでしょうか?
それは彼の死に様があまりに無残だったことと、彼が死の間際に財宝の存在をほのめかしたことが大きいと思われます。
彼の一言は多くの者に夢と希望を与え、世界中の冒険者たちに尽きることのない探求心を埋め込みました。
それは、永遠のロマンとしてこれからも語り継がれていくのかもしれません。

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