日本の金といえば佐渡金山。意外と知られていないポイント3チェック+α

1佐渡金山

歴史的資料

最初期の認識として今昔物語集に残された記述 巻26・第15話に「能登の国の鉄を掘る者、佐渡の国にて金を掘る語」という段があります。

伝聞の収録ながら佐渡で金が採れると明言がなされている資料となります。

つまり今昔物語集の成り立ちといわれる11世紀後半には認知されていたと推測されます。

金脈の発見

天正17年(1589年)に上杉景勝が本間氏を滅ぼし佐渡を上杉領とします。

上杉謙信が金の財力を活用していたという推測はありますが、子の景勝の時代にやっと佐渡を制するのですからこの説は憶測の域を出ません。

佐渡の金脈が発見されるのは戦国時代が終わりを告げた天下統一後となります。

古くから砂金が採れるという佐渡。

長い月日をかけて何人もの領主の統治を経て、ついに金鉱脈が発見されます。

慶長6年(1601年)徳川家康の所領となり、同年、北山(金北山)で金脈を発見。

以来、江戸幕府の重要な財源となります。

2生産と経過

生産量

江戸時代初期すなわち慶長から寛永年間にかけての最盛期には金が1年間に400kg、銀が40トン以上採掘される当時としては世界最大級の産出量を誇ります。

産銀に関しても日本トップクラスであり、貿易の輸入代価として中国などに多く輸出されています。

諸外国からの評価

産出量の多さを物語るエピソードとして

マルコポーロの東方見聞録内で「黄金国にジパング」として中国を訪れた際の伝聞として日本について触れています。

「莫大な金を産出する」「寺院や民家は黄金でできてる」という内容である。

後者については中尊寺金色堂についての話を聞いたからであるという説が有力です。

いずれにせよ中国との貿易にて金銀の輸出が多かった為、伝聞であってもジパングという国は金を大量に保有していると考えるのもうなずけます。

3当時の役割

通貨利用

産出された金銀は江戸の金座・銀座へと送られ貨幣である大判・小判や銀貨として加工されてゆきます。

貿易品としての利用と発展

前項でも触れましたが貿易の主要な輸出品の一つとして貴金属があり、日本から海外へ輸出された量はその当時の世界水準ではトップクラスだったと考えられます。

なぜ国土も狭い日本がこの水準だったのか。

以前までは唐から灰吹法(精錬法)は伝わっていたものの国家レベルでの事業はできず、国内交易も正常ではない状態でした。もちろん織田信長のような個人レベルで諸外国との貿易を行った人物は確認されていますがいずれも大規模交易には至っていません。

推論ではありますが、国内情勢が安定し、諸外国からの技術流入後の利用発展がこの時代になったからだという説があります。

もちろん地下資源が豊富だった事実には変わりありませんが、時代と交易先に恵まれた結果ジパングと言われるほどの産出体制が整ったとの見方がされています。

【+α】流刑地としての佐渡

罪人を島流しにするというと佐渡や種子島という風に考えつく方が多いかと思われます。

江戸時代には罪人を送ることがあったのは事実です。

しかし刑務所があるわけでもなく罪人たちは何をしていたのでしょうか。

まず、どの鉱山でも懸念事項として湧水の問題があります。

もちろん佐渡の金山も例に漏れません。

長年の採掘作業により海抜よりも下方へと進められた坑道はある程度重力で排水される上方の坑道より過酷な環境となります。

絶えず湧水が染み出し水たまりを作り、ひどいところでは水没するわけです。

そのために、水替人足という排水専門の労働力が必要となります。

過酷な労働環境により人手不足は慢性化し、その補填に江戸の無宿人を送ったのが始まりとなります。

ここで重要なのは基本的には金銭が発生する仕事の斡旋であったという事です。

構成人員は無宿人=元犯罪者や浮浪者・食扶持がない者であったのは事実ですが、

罪と認められて刑として労働をされたわけではなかったのです。

あくまで、労働環境が過酷であった事実があるだけです。

しかしながら、佐渡帰りの渡世人には「丸にサの入れ墨」があったとされ恐れられたとの逸話も残ります。

ちなみに、一般的な島流しと認識されている遠島を受けた罪人は

「島に着いたあとは勝手に生きよ」というものです。

島への居住と自由な生活(援助は無い)と引き換えに島からの逃亡が禁止されるという内容になります。

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