今回は趣向を少し変えて歴史ロマン溢れる題材です。
埋蔵金と言えば国内では戦国武将が有名ですね。
第一回目は某小説でも有名な大阪の将軍様。
豊臣秀吉公の埋蔵金についてお話ししたいと思います。
1.埋蔵場所は多田銀山
場所と成り立ち
多田銀山は兵庫県川西市稲川町に位置し、大阪府池田市まで坑道が続いています。
その歴史は秀吉の時代を遡り、鎌倉時代の記録に能勢採銅所として記されています。
銅や銀が採れる銀鉱山ではありますが、金を産出するわけでもなく
とりわけ産出量が多くもないありふれた銀山でした。
銀山の構造
縦穴と横穴が複雑に入り組み、秀吉の時代から何か所も水没している部分があったとされています。
広範囲に広がる坑道の把握は不可能に近く、鎌倉時代に掘り進められた部分とは全く違う方向にも伸びていると言われています。
2.技術革新と坑道の複雑化
古い時代では銅山だった
通常の荒銅を熱で溶かして簡易的な精錬を行い使用していた時代です。
どこでも行われていたであろう光景が広がるだけで産出量も決して多くなく、
技術的にも高効率の生産体制ではなかったといわれています。
複雑化の理由
天正の時代になり外国から伝えられた精錬技術「南蛮吹き」とよばれる灰吹法により
金銀の精錬が可能となります。
これをもって秀吉の直轄領となり、代官所が置かれ銀山村として栄え始めます。
次第に産出量は落ち込んできますが、銅だけではなく銀も採れるという事で
長年にわたり広がり続け複雑化した坑道が出来上がったのです。
技術革新により坑道が複雑化し、
産出量は地味で注目されず、しかしながら埋蔵金を隠すには絶好のスポットになったという事ですね。
3.埋蔵量と伝説の検証
天文学的金額
豊臣秀吉の埋蔵金は秀吉が病床につき、跡継ぎの秀頼(当時6歳)のために用意したものとされています。
朝鮮出兵の残りの軍資金であった天正大判4億5000万両と金塊112.5トン分と言われています。
地金としてだけでも5兆円程度になる上に、大判自体に歴史的価値を見出すとすれば数千万円とも言われています。
埋蔵の証拠とその後
戦後に民家から見つかった書物に埋蔵の記録が残っていたとされています。
解読が必要な文章であったとされますが、秀吉の妻である淀と信頼ある臣下へ宛てた2通分が存在していたと言われています。
徳川の時代になりそれらが幕府の手に渡りすでに掘りつくされたとされる説もありますが、
豊臣の埋蔵金を見つけたという記述や書物が残っていない事と最大の埋蔵箇所である水没した坑道の水は未だに抜けていないという事からいまだ信憑性の高い埋蔵金伝説となっています。